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生物学はいかに創られたか(特別編)ー精巧で美しい麹造り、酒造りの妙技ー

精巧で美しい麹造り、酒造りの妙技                 柴井博四郎(挿絵・今井孝夫)

 名もない偉大な人々
 人類は生物に囲まれて生活しているので、生物について考察し、実験し、生物の機能を利用する営みは地球上のいたるところで行われてきたと考えるほうが自然です。地球上のいたるところで、その土地で生産される澱粉や糖を原料にしてさまざまな酒が造られてきた事がそのことを示しています。

 西洋で展開された生物学の進歩をここで紹介できるのは、先人の考察や実験が文字によって残されているからであって、地球上の他の地域で同様な考察や実験がまったく行われなかったということにはならないと考えられます。文字に残されなくとも、先人の努力の痕跡が何かの形で残っているはずです。

 わが国の場合、西洋の考察と実験に対応する内容が、そっくりそのまま麹造りと酒造りの中にこめられています。考察と実験、失敗と成功の記録が残されていないのが実に残念なほど、できあがった技術は精巧で美しいものです。精巧で美しい点は以下の通りです。
(1)コッホとパスツールによって微生物の純粋培養が考案されるずっと以前から、麹菌の優先培養が完成されていました。
(2)この人工的な培養技術のおかげで元々は強力な発癌剤アフラトキシン分泌菌であった麹菌が、技術者も気がつかないうちに、超安全なアフラトキシン非生産菌に変換していたのです。
(3)また、微生物の動的実態が不明なために生命自然発生説が混迷を続けていた時に、麹菌の種を最適な培地で培養し、増殖した麹菌を米に咲いた花(糀)と観察していたのです。
(4)さらに、パスツールが、ビール醸造が酵母の生育とアルコール生産という2段階があり、それぞれに最適な条件設定が必要なことを明らかにする以前から、酒造りの技術者はパスツールの発見をすでに実践していたのです。
(5)パスツールは低温殺菌によってビールの腐敗を防止しましたが、同様に、酒の腐敗防止にも低温殺菌が実践されていました。


 以下に今までの説明で用いたキーワードを使って名もない先人たちの巧みさを紹介します。

 麹の優先培養
 酒造りは一麹、二酛、三造りと言われるほど麹の果たす役割はきわめて大きい。味噌や醤油造りにおいては、麦や大豆を蒸煮したものに自然に生えるカビが麹として使われてきましたが、貴重な米から高価な清酒を造る場合には、麹造りを自然にまかせないで丁寧に育てる技術が発達しました。十五世紀前半の室町時代に麹騒動があって、麹造りの利権を麹屋と酒屋が争ったことからも分かるように、その頃すでにこの技術は確立していました。

 精米を蒸した後、米表面の水分が乾いてから、木灰を1%以上添加し、麹の胞子を接種して暖かい室(むろ)で培養すると、米表面に麹菌の菌糸が生育し麹米ができあがります。麹米を放置すると、菌糸に胞子が着生し麹造りの種として次回の培養に使われます。

 多種多様な雑菌に囲まれている環境下でこのような操作が室町時代から行なわれ、麹は現在に至るまで粛々と受け継がれてきました。数百年もリレーされた麹は、菌学的にはAspergillus oryzae に含まれます。パスツールやコッホが確立した純粋培養では、閉鎖系の無菌箱(閉じた操作箱の中に霧を吹いて浮遊する雑菌を水滴に吸着させて落下させる)の中の操作が必要ですが、麹造りは開放系の室で行われました。パスツールやコッホの技術を受け継ぐ私どもは、性能の高いクリーンベンチを使って純粋培養を試みますが、ときにはいくら注意しても雑菌に汚染されるのが実態です。無菌箱も用いずに、雑菌がうようよする開放系の室(むろ)の中で、数百年にわたって麹がほぼ純粋に植え継がれてきたのは大きな驚きです。

その秘密は蒸米に加えられた木灰にあります。大豆をつぶした味噌玉の表面に自然に生えるカビは、最初はいろいろなカビが混在していますが、もし、混在するカビを蒸米と木灰で植え継いでいけば他のカビの割合が減少するとともに微生物集団は麹菌で占められるのです。

 麹は自然に湧くのではなく種の胞子から生まれて花となる
 麹菌は顕微鏡下でしか見えない微生物です。麹造りの技術者は顕微鏡を使わなくても、麹を目で見える生物として理解していました。糀(こうじ)は和製漢字で、彼らは麹を米に咲く花としてとらえていたのです。中国では、麦の粉で作った団子に自然に着生するカビを麹と呼んでいましたが、中国技術が日本に入って原料が米に変わったので、米麹を意味する糀なる漢字が生まれることになりました。親が不明で自然発生によってできる中国麹なら、生命自然発生説も生まれましょうが、種として胞子を用いる糀なら、自然発生説など生まれようがありません。

 培養による病原性の喪失
 パスツールは培養をくり返したニワトリ・コレラ菌や炭疽菌が病原性を弱くすることを発見し、弱毒化ワクチンを生み出しました。後の記事で紹介しますが、グリフィスは病原性を喪失した肺炎双球菌を使って奇想天外な実験をし、驚くべき現象を観察しました。病原性を失った肺炎双球菌も培養によって分離されたものです。室町時代から培養によって受け継がれた麹菌は、最強の発癌物質であるアフラトキシン生産能力を失っているのです。

 ピーナツに寄生し、アフラトキシンを分泌するカビが麹菌と分類学的に同じであることが分かった時に、麹菌のアフラトキシン分泌能について精密で大々的な調査が実施されました。その結果、日本の麹菌はアフラトキシン分泌能を欠損していることが明らかになりました。アフラトキシン合成に関与する遺伝子群をもってはいるが、遺伝子群を作動させる制御機構の欠落が判明したのです。麹菌の集団の中にはさまざまな変異株が自然に発生し、混在しています。アフラトキシン非生産変異株は、最適な培地と環境が与えられる人工培養の場では、余分な分子(アフラトキシン)を合成しない分だけ、野生株よりわずかに生育が早いので、培養がくり返されれば、非生産株が集団を圧倒することになり、日本の麹菌にはアフラトキシン生産能がすっかりなくなりました。

今や日本の麹菌は、人類との長期間にわたる接触によって、経験的に、もっとも安全性の高い微生物として、酵母、乳酸菌などとともに、世界で認められています。

 
 酵母の優先培養
 パスツールがビール醸造で最も苦労したのは、酵母の純粋培養をつくることでした。パスツールは酵母が純粋培養されるには、酵母が雑菌に優先して生育することが大切と考え、酵母の好む培養条件を調べました。好気的条件、糖濃度が高い培地、酒石酸を添加した低pHの培地、がその答でした。

製造の場における純粋培養とは、多少の雑菌が混在していても、醸造が成功すればよいという程度のものです。パスツールは、醸造期間を通して、顕微鏡によって、純粋の程度を調べることができましたが、昔の酒造りでは、酵母が酒を生産しているという知識もない状態で、酵母の純粋培養が確立していたのです。

 酒造りの第一段階は、麹屋から購入する麹胞子を種として蒸米に麹菌を生育させることです。この場合は木灰を使わずに麹米を造ります。麹米と水を混合し、200リットル程度の桶に入れ、厳寒の冬に、1カ月もすると酵母の純粋培養ができあがり、中から酵母の出す泡が芳香とともに湧いてきます。酵母の純粋培養液は種母(酛)として主培養に使われます。

種母(酛)ができるまでに行なわれることといったら、お湯の入った小さな木樽で毎日桶の中をかき回すだけです。手品のようにさえ見えます。培養液の中で最初におこることは、麹の澱粉分解酵素によって糖が生成し、次に糖を利用して乳酸菌が生育して乳酸を分泌します。その結果、培養液のpHは低下し、乳酸菌自体が死滅し、他の雑菌の生育も抑制され、酵母が優先的に生育できるのです。麹米から生成する糖の濃度が高まっていることも酵母の優先的な生育に作用します。この仕組みが分かったのは明治以後のことでした。

この仕組みが分かったので、現在では最初から乳酸を添加し、培養液のpHを低下させる速醸酛がもっぱら使われ、伝統的な山卸し廃止酛は一部で実施されているにすぎません。

山卸し廃止酛という名前が示すように、さらに以前には山卸し酛が使われていたのです。「山卸し」は、麹米を板で潰す煩雑な作業です。今の知識で考えれば、米の澱粉と麹の澱粉分解酵素の接触を促し、糖分の生成を早める効果があったと思われます。甘味を感知してその効果を認めたからこそこの煩雑な作業を実施したのでしょう。しかし、糖分が高まっても、乳酸菌の厳寒期におけるゆっくりした生育を早める効果までは得られなかったと考えられます。乳酸菌が初期生育するのに必要な糖濃度は、甘味を感知できるほどの糖濃度が必要ではなかったと考えられます。酵母が生育する後期には「山卸し」をしなくても糖濃度は充分に高まり、酵母の優先生育に有利となるのです。

酒造りに大切な順は一が麹、二が酛です。両者ともに純粋培養が成功の秘訣でした。酵母の純粋培養を達成するその秘密は、前段階に生育する乳酸菌が酵母の最適環境をつくることにあったのです。もちろん麹米から生成する高い糖濃度も重要な因子です。

 パスツール効果:「酸素は発酵を阻害する」または「酸素は酵母の生育を促進するがアルコール生産を阻害する」
 最後は、「一麹、二酛、三造り」の三造りです。酒造りの主培養(造り)は3段階から成りたっています。タンクの張り込み量が10キロリットルとすると、例えば、第一段階では1キロリットルが張り込まれます。種母(酛)200リットルに麹米、蒸米、水が加わり1キロリットルとなり、第二段階では、さらに麹米、蒸米、水が添加され、5キロリットルとなり、第三段階で、さらに麹米、蒸米、水が加わり、最終的に10キロリットルとなります。
 
酵母の生育と発酵(アルコール生産)に関係する環境因子として重要な培養系の好気度(逆は嫌気度)について説明を加えます。好気度が高い培養系では酸素供給が効率的に行なわれ、逆に低い培養系では、酸素が充分に供給されません。酒造りの培養タンクでは、酸素は培養液の空気に接した表面からだけ供給されます。張り込みが1キロリットルであっても10キロリットルであっても、酸素が供給される表面積は変わりません。つまり円筒形のタンクであれば底面積ということになります。1キロリットルの培養液でも10キロリットルの培養液でも、底面積から同じ速度で酸素が供給されます。従って、単位液量当たりに供給される酸素は、張り込み10キロリットルでは、張り込み1キロリットルの1/10ということになります。張り込み1キロリットルでは好気度が高く、10キロリットルでは好気度が低くなります。

 酒造りの初期には酵母の生育が大切なので好気度が高い方が好ましく、液深の浅い張り込み1キロリットルが適していますが、後期では生育した酵母がアルコールをつくるのですから、アルコール生産に阻害的な酸素の供給が抑えられた張り込み10キロリットルが適しています。つまり、伝統的な酒造りにはパスツール効果が実践されているという大きな秘密が隠されているのです。「一麹、二酛、三造り」で三造りのポイントはパスツール効果なのです(図9-1)。

図9-1 酒造りにおけるパスツール効果
図9-1 酒造りにおけるパスツール効果



 パスツーリゼーション(低温殺菌)
 酒造りは厳寒期に行なわれ、春先にできた新酒は秋口まで熟成され、「秋あがりの酒」となります。新酒は低温殺菌(火入れ)され、乳酸菌が殺菌され、熟成中の腐敗が防がれました。火入れはパスツールが考案したパスツーリゼーションと同じです。酒が腐る(火落ち)のは、ビールと同様、乳酸菌が原因です。図9−2に酒造りの概略フローを示します

図9-2 酒造りの概略フロー
図9-2 酒造りの概略フロー


 麹造りと酒造りの技術が完成されるまでには、多くの人が失敗をくり返し、失敗の原因を考察し、偶然に得られた成功の要因を考察し、多くの試みがなされ、少しずつ今の姿ができあがったのでしょう。同じように、西洋の学者たちは微生物を相手に、観察・考察・実験して少しずつ真理を解き明かしました。麹造りと酒造りで完成した技術と西洋の学者が生物の不思議に取り組んだ内容におどろくほどの共通点があると言えないでしょうか。

 キッズが、欧米からやってくる最新の知識を学習するだけでなく、その知識の土台になった先人の観察・考察の歴史を知ることはぜひ必要ですが、同時に、私ども日本人の先人が必要に迫られ、自身の問題を自身で解決した内容は、時代をはるかに先取りして、世界に通用するものであったことに誇りをもってもよいのではないでしょうか。欧米から輸入される最新の知識を前提にして研究を始めることも大切です。一方で、精密な観察と深い考察を重ね、自身の問題を見つめ、その解決に踏み出すことも大切ではないでしょうか。自身の問題を深くつきつめれば普遍性をもった人類の問題になる可能性が高いと思われます。

参考書 
パスツール著/斎藤日向監修 竹田正一郎・北畠克顕共訳「ビールの研究」、大阪大学出版会

次回は9月25日、「生物学の夜明け(7.2):細菌と病気の関係を明らかにしたコッホ」を予定しております。
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