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バイオキッズ・サロン

生物学はいかに創られたか(7.1)~生物学の夜明け:人類の困難と対決したパスツール~

生物学の夜明け:人類の困難と対決したパスツール            柴井博四郎(挿絵・今井孝夫)

 生命自然発生説を否定し、アリストテレス以来の論争に決着をつけることができたのは、パスツールが、ワインやビール製造の問題を解決する過程で、微生物を詳しく観察していたからです。製造に失敗して腐ったビールが、大金をかけたので捨てるのも惜しく、工場のタンクに大量に残っていました。イギリスやドイツに比べてフランスではビール製造に大きな問題をかかえていたのです。また、製造が成功したかに見えても、出荷後2週間で腐ってしまうビールもありました。パスツールはこの困難な問題に取り組みました。

 微生物が関連して社会が困っている問題はワインやビールだけではありませんでした。カイコが病死して養蚕業が危機に瀕し、病気によって人の健康がおびやかされ、家畜が命を落とし牧畜業に大打撃を与えていました。パスツールはこれら人類がかかえる困難に正面から取り組み、悪戦苦闘の末に解決策を与えたのです。

 パスツールは生物学の分野で巨大な学問的進歩をもたらしましたが、これらの偉大な貢献は単に基礎的な研究から生まれたのではなく、人と社会が直面する大きな困難と戦う過程で明らかにされたのです。

 ビールは酵母が造る
 パスツールはビール醸造の過程を詳しく顕微鏡で観察しました。ビール醸造の初期ではビールの中に丸くて大きな酵母がいっぱい見えますが、小さな細菌が見えはじめ多くなると醸造は失敗します。同じように、上手にできたビールでも、2週間で腐るビールでは、多くいた酵母が消え、細菌におき代わっていました。そこで、「ビールは酵母が造る」、「ビールを腐らせるのは細菌」という仮説で仕事をはじめました。

 
 酵母の純粋培養
 腐ったビールには酵母だけでなく細菌が多数混在します。腐ったビール1ml当たり酵母と細菌が1億個(108)ずつ混在するとします。この液を1億倍希釈すると、1ml当たり酵母と細菌が1個ずつになります。殺菌水100mlに腐ったビールを1ml加えると、100倍希釈、殺菌水100mlに100倍希釈液1ml加えると、1万倍希釈液、この操作をさらに2回くり返すと、1億倍希釈液が得られ、1ml当たり酵母と細菌が1個ずつの液となります。この希釈液4mlと殺菌水6mlを混合すると、酵母と細菌が4個ずついる10mlの液ができます。この液10mlを1mlずつに分けると、酵母が1個入った液が4つ、細菌1個の液が4つ、酵母も細菌も入らない液が2つできることになります(下図)。

酵母と細菌が混ざる液から酵母を純粋分離
酵母と細菌が混ざる液から酵母を純粋分離


 麦芽汁を入れたフラスコ10個を殺菌しておき、先に調整した10本の1ml希釈液を、それぞれ、10個の麦芽汁に添加すると、酵母が1個入った麦芽汁フラスコが4個、細菌1個の麦芽汁が4個、酵母も細菌も入らない麦芽汁フラスコが2個できることになります。これらの麦芽汁を培養すると、酵母だけが増殖する麦芽汁が4個、細菌だけが増殖する麦芽汁が4個、何も増殖しない麦芽汁が2個できることになります。つまり、酵母と細菌の純粋培養ができたことになるのです。酵母の純粋培養液ではビールが上手にでき、細菌の純粋培養液ではビールの香りはしないで腐った匂いだけです。このようにして腐ったビールから上等なビールを再生させたのです(下図)。


純粋培養によるビール醸造
純粋培養によるビール醸造


 かくして、ビール製造では酵母の純粋培養が必要な事を明らかにしました。純粋培養で造ったビールは2週間保存しても腐ることはありませんでした。

 腐敗防止の低温殺菌(パスツーリゼーション)
 ビールが上手にできたと思っても、市場で腐敗する場合は、ビールに細菌が混在していて、出荷後に細菌の増殖が起こることが分かりました。摂氏65度で短時間処理することで、腐敗の原因となる細菌は死滅することを明らかにし、ビールの腐敗が防止できたのです。

 微生物は変わらない
 自然界にさまざまな性質をもった多種多様な微生物がいて、ある環境ではその環境にいちばん適した微生物が活発に増殖します。ビールの原料は麦芽汁です。糖濃度が高いので酵母の生育に適していますから酵母が活発に増殖します。酵母は糖を消費し、アルコールに変換し、麦芽汁はビールになります。ビールは、もはや酵母の生育には適さない場になり、酵母は死んで自己溶解を始めます。すると混在していた乳酸菌が代わって活発に増殖し、酵母が乳酸菌におき代わり、ビールは腐るのです(下図)。このように一つの場に注目して観察すると活発な微生物の種類が代わってゆきます。麦芽汁では、最初に見えた酵母が乳酸菌に変わったように観察すれます。そこで、「微生物は変わる」と主張する研究者がいたのです。先に紹介した純粋培養の技術を使い、酵母は乳酸菌に変わらないことを証明したのです。

酵母が乳酸菌におき代わる
酵母が乳酸菌におき代わる


 自分が観察し、考えたことがそのまま真実であるとはかぎらないのです。このことを「己が欲するままに事物ありとするは精神の迷盲なり」とパスツールはつよく戒めています。

 酸素は酵母の生育を促進するがアルコール生産を阻害する(パスツール効果)
 ビール醸造が成功するためには、先ず酵母が順調に生育し、次に生育した酵母がアルコールを効率よく生産しなければなりません。パスツールはビール醸造が酵母の生育とアルコール生産という2段階から成り立っていることに気がつき、それぞれの過程(生育とアルコール生産)の最適条件を探る研究でこの原理を発見しました。酸素は、酵母の生育を促進しますが、アルコール生産を阻害するのです。つまりビール醸造では生育の第一段階は好気的で、アルコール生産の第二段階では嫌気的な条件が好ましいことを明らかにしました。パスツール以後の詳細な研究が進むと、この原理は生物がエネルギーを獲得するメカニズムの基本に関わることが分かりました。

 現在分かっている呼吸の仕組みとエネルギー獲得のメカニズムを勉強すると、このパスツールの発見は根底から理解できます。糖が酸素の存在下で水と二酸化炭素に分解され、その過程で生物は糖に貯蔵された太陽エネルギーを生物エネルギーとして引き出します。このエネルギー獲得の長い過程は二つに分かれ、酸素を必要としない前半と、必要とする後半部分です。前半では、きわめて少量のエネルギーしか得られませんが、後半では多量のエネルギーが得られます。

 酵母の場合、酸素不要の前半で糖がアルコールまで分解され少量のエネルギーを得て、酸素を要する後半で、糖はアルコールを経由しないで、水と二酸化炭素に分解され多量のエネルギーを得ます。酵母が充分に生育するためには、多量のエネルギーを必要とするので、酸素が必要です。一方、アルコールを生産するためには、酸素が不足した条件下が必要となるのです。もし酸素があると、糖は水と二酸化炭素に分解されアルコールはできません。これがパスツール効果の意味する内容です。

 蚕軟化病は微生物が原因し使用器や蚕室の清潔消毒によって防止できる
 蚕の体がやわらかくなり餌を食べずに死んでゆく軟化病が蔓延し養蚕業が大打撃を受けていました。蚕についてまったく何も知らないパスツールがこの問題に取り組みました。病気になったカイコの体の隅々を顕微鏡で丹念に調べて原虫よりも小さな粒子を認めました。この粒子を培養し蚕の体に塗りつけますと病気になり数日して死にました。

 パスツールは、醸造に関する研究の経験から動物や人の病気にも微生物が関わっていると考えていました。蚕の病気が微生物によって起こることが分かりましたので、蚕室や使用器具をできるだけ清潔に保つことを勧め、蚕の病気が減り、養蚕業と織物業に大きな恩恵をもたらしたのです。

 一方、イギリスの外科医リスターは、パスツールの蚕の研究ではなく、ワインやビールの研究からヒントを得て、手術法の改善をはたしました。手術は成功しても、その後の微生物感染によって命を落とす患者が多くいました。手術器具を石炭酸で殺菌し、手術室を清潔に保つことによって術後死亡率を大幅に改善できたのです。

 ニワトリ・コレラのワクチン予防
 パスツールは養鶏業に損害をもたらすニワトリ・コレラ病と取りくみました。病原菌の培養液をパンに塗って与えたり、注射すると下痢症状を起こして数日で死にます。このような実験の中である時、病原菌の培養液を投与しても死なないニワトリがいました。このニワトリは、培養を何回もくり返した病原菌が投与されていることが分かりました。つまり、培養をくり返すことによって病原性が弱くなったり失われたりするのです。この培養液をニワトリに投与しますと、かるく発病しますが間もなく回復します。そこで、回復したニワトリに今度は毒性の強い病原菌を与えました。すると、ニワトリは発病しないで元気に生きつづけたのです。

 ジェンナーは既に、天然痘の予防に毒性の弱い牛痘をワクチンとして使う方法を発明していました。パスツールの方法は病原体そのものを弱毒化させる方法でした。

 パスツールはその後、病原体そのものを出発材料にして弱毒化させる方法を展開させ、牛や羊の炭疽病、狂犬病のワクチンをつくり、医学の分野でも人類の福祉に大きな貢献をしました。

 微生物は変わる
 さてここで復習をして頭の中を整理したいと思います。先ほどは、「微生物は変わらない」と述べました。表面的に観察すると、酵母が乳酸菌に変わったように見えますが、実は、酵母が乳酸菌におき代わったのでした。麦芽汁では酵母が優先的に増殖し、麦芽汁がビールになると乳酸菌が優先的に増殖した結果です。

 今ここで「微生物は変わる」ということを理解してもらいたいのです。ニワトリ・コレラ菌は培養をくり返すうちに病原性を失いました。病原性をもったコレラ菌が病原性を失ったコレラ菌に変わったのです。ニワトリ・コレラ菌の大集団の中にはきわめて稀に病原性を失った菌(変異株)が出現して混ざっているのです。この病原性(-)菌はニワトリに感染した際に戦う武器をもっていないので、ニワトリの抵抗力に負けて、体内で増殖できません。一方、病原性(+)菌は戦う武器をもっていて、ニワトリの体内で増殖し、そして殺します。従って、死んだニワトリの体内には病原性(+)菌しかいないのです。

 一方で、ニワトリ・コレラ菌がニワトリの肉汁で培養されると、生きたニワトリと戦いながら生育する必要がないのですから、病原性(-)菌も(+)菌と同様に生育できます。ニワトリの体内では戦う武器が有効に働きましたが、人工的につくられた肉汁の中では武器は無用の長物です。武器という余分をかかえながら生育する(+)菌は、武器をもたない(-)菌よりも生育が遅れます。ニワトリ・コレラ菌大集団の中できわめて稀な存在だった(-)菌は、培養をくり返すうちに、少しずつ、集団の中で数を増し、ついには(+)菌におき代わってしまうのです。これが「微生物は変わる」が意味するところです。長い目で見ると集団は病原性(+)菌から(-)菌に「変わり」ますが、内容的には少しずつ「代わって」いるのです。

 酵母が乳酸菌に「代わる」のも病原性(+)菌が(-)菌に「変わる」のも原理としては同一です。その場の環境がどちらの微生物に適しているかが決め手になります。微生物と同様、「生物は変わらない」とも言えるし、また「生物は変わる」とも言えるのです。これからのお話にも深く関係しますので、頭の隅にとどめておいて下さい。

参考書 
パスツール著/斎藤日向監修 竹田正一郎・北畠克顕共訳「ビールの研究」、大阪大学出版会

次回は8月25日、「生物学はいかに創られたか(特別番外編)―精巧で美しい麹造り、酒造りの妙技―」を予定しております。
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